旅する人々 ー日本をちょこちょことー

自分たちの旅の様子や海外からの友人たちの旅を紹介しています。

夢幻の国

毎年八月のお盆前後、実家の横浜に帰省した際には、必ず長野に出かけることにしている。

長野は両親の故郷であるということもあるが、上海の真夏のうだるような暑さの中で生活していると、長野の山上の涼やかで清浄な風はこの世でもっとも貴重なもののような気がしてくるのである。上高地もよかった。白馬も美しかった。私は登山家ではない。家族を連れて、せいぜい4時間程度で歩き戻ってくることのできる初心者向けの道をゆくだけである。それでも十分に新鮮な感動を味わうことができる。以前わたしはあまり山に興味がなかった。高校生の頃、蔵王や裏磐梯山を学校の活動として登った時、ほとんど苦痛以外のものを感じなかった。それよりも海辺に出かけて泳いだり釣りに没頭している方が楽しかった。今でも海浜の遊びは面白いと思うが、上海で生活するようになって自然から乖離しはじめると、山上の静けさ、荘厳さというものほど尊いものはないのではないかと思うようになった。年齢のせいもあるかもしれない。

日本の大きめの書店で山岳関係の書籍を探すと必ず目にするのが『日本百名山』である。おそらく山岳ファンにとっては必読の書なのだろうが、わたしのような初心者の山歩きには無用の本だと思って手に取ることはなかったのだが、今回の福井の旅で、はじめて読んでみたのである。

『日本百名山』の作者は深田久弥といって、石川県加賀市の生まれである。加賀市は福井県の県境に位置しており、実は今回の福井の旅でも夜は加賀市の旅館に寝泊まりしていた。深田久弥の故郷に宿泊したわけである。話はずれるが、加賀市には山中温泉、山代温泉といった温泉街がいくつかあり、それぞれに文化と風情がある。とくに山代温泉でお世話になった「あらや」という旅館はよかった。創業380年の歴史をもち、かつて魯山人(1883-1959)がこの地に滞在して陶芸に目覚めていった若い無名時代の頃、当時のあらやご当主がパトロンとして支援したという歴史的な興味のほかに、現在の女将がそういう歴史をいやらしく誇るということもなく、気さくで上品で親切だったのが印象的だった。

もともと『日本百名山』を知らなかった私は、この本のことを登山家向けの山岳ガイドブックだと思っていた。だがそれはまったくの誤解だった。深田久弥の文章は人をして山々の郷愁へと駆り立てる。故郷に山を持たないわたしのような人間の心までをも山に惹き付けようとする。中でも「白山」の項はとくに美しく懐かしく綴られている。北陸の山塊である白山は、この短い一文を以て、もっと日本人にも、また世界に知られるべきであると思う。以下引用する。

日本人は大てい ふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変わっても、その山だけは昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。

私のふるさとの山は白山であった。白山は生家の二階からも、小学校の門からも、鮒釣り川辺からも、泳ぎに行く海岸の砂丘からも、つまり私の故郷の町のどこからでも見えた。真正面に気高く美しく見えた。それは名の通り一年の半分は白い山であった。

純白の冬の白山が春の更けるにつれて斑になり、その残雪があらかた消えるのは六月中旬になってからであった。そして秋の末から再び白くなり始める。最初は冬の先触れとして峰のあたりに僅かの雪をおく。それがだんだん拡がって十二月の中頃には、もう一点の染みもなく真白になってしまう。そしてそれが翌年の春まで続くのであった。

(中略)

その加賀の平野でも、私のふるさとの町から眺めるのが最上であることを、私は自信をもって誇ることができる。主峰の御前と大汝を均衡のとれた形で眺め得るのみでなく、白山の持つ高さと拡がりを、最も確かに、最も明らかに認め得るのは、私の町の付近からであった。戦後私はふるさとに帰って三年半の孤独な疎開生活を送ったが、白山はどれほど私を慰めてくれたことか。

徹夜して物を書いた明け方、最初の光線が窓ガラスに射してくると、私は立上がって外をうかがう。もしハッキリ山が見えそうな天気であると、町はずれまで出て行き、そこから遮ぎるもののない早暁の静寂な白山を、こころゆくまで眺めるのを常とした。

夕方、日本海に沈む太陽の余映を受けて、白山が薔薇色に染まるひと時は、美しいものの究極であった。みるみるうちに薄鼠に暮れて行くまでの、暫くの間の微妙な色彩の推移は、この世のものとは思われなかった。

北陸の冬は晴れ間が少ない。たまに一点の雲もなく晴れた夜、大気がピンと響くように凍って、澄み渡った大空に、青い月光を受けて、白銀の白山がまるで水晶細工のように浮きあがっているさまは、何か非現実的な夢幻の国の景色であった。

(中略)

白山について語り出せばきりがない。それほど多くのものをこの山は私に与えている。

残念ながら今回の越前の旅では「夢幻の国の景色」を肉眼で味わうことはできなかった。たしかに北陸の冬は曇が重く、晴れ間は僅かであった。わたしはこの文章によって想像の中で夜の白山の冷え冷えとした美しさを想像するのみである。

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