和歌のふるさと常寂光寺の紅葉 (嵐山周辺)
天龍寺をあとにし、竹林の道を抜けると、賑やかだった人通りも静けさを取り戻してきた。北に向かう小道は赤く紅葉し、田舎道を歩いているようだった。
竹林の道を抜けて常寂光寺へ向かうみち
田舎道を北上していくと常寂光寺がある。
この寺は禅寺ではなく、日禎という日蓮宗の人が1596年建立した寺である。
常寂光寺山門
日禎は気骨のある人で、豊臣秀吉の絶頂の時に反抗している。秀吉は自分の祖父母のために千人の僧を招いて食事を供し、法要を行おうとした。場所は自身が建立した京都方広寺である。方広寺は天台宗である。このとき秀吉は宗派の別なく僧を招待した。日禎は日蓮宗の教義である不受不施義の教えを守って招待を断った。不受不施義とは他宗の施しは受けもしないし、与えもしないという意味である。このため一時京都を逃れ、佐渡などに放浪した。やがって戻って建立したのがこの寺である。隠棲のための寺だったから、規模は小さい。が、眺めがすばらしく、寺域全体が紅葉のために紅く染まっていた。
常寂光寺境内の紅葉
日本人であれば誰でも知っている百人一首は藤原定家(1161-1241)という歌人が選んだもので、正式には小倉百人一首という。小倉というのは小倉山のことで、この常寂光寺の背後の山がそれである。常寂光寺が開かれるはるか以前、藤原定家はここに住し、和歌を詠み、百人一首を編んだ。
吹きはらふもみぢの上の霧はれて嶺たしかなる嵐山かな (定家)
(終わり)