旅する人々 ー日本をちょこちょことー

自分たちの旅の様子や海外からの友人たちの旅を紹介しています。

佐賀市の家具屋

引っ越しをしてまだ時間もあまりたっていないので、

 

家具があまりそろっていません。

 

十分な資金もないので、贅沢なものも買えません。

 

佐賀の家具といえば、諸富という町と、その隣の大川という町(ただし福岡県)

 

が、家具の町として全国的にも有名なのだそうですが、

 

わたしはまったく知りませんでした。

 

そういうわけで、諸富や大川に出かけて、テーブルや椅子を買いました。

 

おそらく、大川の”関家具”さんは地元ではとても有名なのだと思います。

 

佐賀県や福岡県や熊本県で車を走らせていると、よく広告を見かけます。

 

実際、アウトレット品も置いてあり、わたしらのようなコスパ重視派にも

 

いい店だと思います。勿論、手の出しようもない、高級家具もたくさん

 

置いてありました。

 

一方で、諸富には”ニッカ”というお店がありました。

 

個性的な店主が、個性的なやり方で運営されています。

 

home-goods-store-1370.business.site

 

ときどき、0円で家具販売しているようで、直近でもソファーを0円で販売(?)

 

するそうです。お客が二人以上の場合はじゃんけんで決めるらしいです。

 

わたしは迷いましたが、行きませんでした。ほかの用事が入っちゃったので。

 

宝物を探すような気分で行くと、とてもいいお店だと思います。

 

最後におすすめしたいのはRiccaさんです。

 

関家具さんも、ニッカさんも、個性があってよいお店ですが、佐賀駅からは

 

少し離れています。Riccaさんは比較的に近くにあるので、行きやすいです。

 

saga.mypl.net

ここもコスパ重視の方に向いているお店です。

 

ゴージャス志向だったり、洗練された雰囲気のお店が好きだったら、合わない

 

と思いますので、ほかをあたったほうがよいでしょう。

 

このお店で、キッチンカウンターとダイニングセットを買ってしまいました。

 

たぶんこのお店は同じものを定期的に仕入れるスタイルではなく、センスで

 

買い付けてどんどん売り捌くというスタイルなので、同じものは二度と販売

 

しないということもよくあるのではないかと思います。

 

なので、気に入るものがなかったら、無理して買わずに、一週間くらい間隔

 

をあけて訪問するのがいいと思います。

 

わたしの場合も、1回目、2回目、まあまあ気になった家具もあったのですが、

 

あえてスルーして、3回目の今日、(値段も含めて)気に入るものが出ていたので、

 

迷わず購入することにしました。

 

きっと、安いと思います。正規店舗で買えば軽く2倍以上はするのではないかと

 

思います(根拠はないですけど)。

 

来週配送してくれるそうなので楽しみです。

 

支払が済んで店を出るときに、ベテランの店員さんが、

 

「なにも買わなくてもいいから、遊びに来てください」

 

と仰ってくれました。そういう気持ちって、うれしいですよね。

気になる人 ー狗熊さんー

Podcastで気になる番組を見つけました。

 

タイトルは”狗熊有话说”。

 

”狗熊”の狗は犬という意味ですが、犬熊というのはツキノワグマのことらしいです。

 

ニックネームなんでしょうけど、語り口は極めて静か。

 

しかもスローな中国語で、といって、スローすぎず、聞き取りやすいです。

 

まだよくわからないですけど、多才な人みたいです。

 

というわけで、これからフォローしていきたいと思います。

 

リンク貼ってみます。日本から見れるのかどうかわかりませんが。

 

 国外青年旅社生存指南 | GO熊111

 

それではまた。

 

今から紅葉が楽しみ

久しぶりの更新です。

 

ブログのタイトルも変更してみました。

 

今年の国慶節は10月1日から1週間ほどです。

 

このお休みを利用して日本に帰国しようと思うのですが、

 

この時期にどこか紅葉を見れないのかなと調べてみると、

 

多くはないですが、いくつかありました。

 

With that said, そういうわけで、今回は八ヶ岳方面に行ってみようと思います。

 

あと2ヶ月、楽しみです。

 

上海の友達も誘ってみようかなと思っています。

 

落柿舎のさびしさ

芭蕉(1644-1694)晩年の48歳のとき、一時嵯峨野にいた。嵯峨野に落柿舎という小さい庵があって、芭蕉の高弟であった去来の別荘である。別荘には40本ほどの柿の木があった。或る時去来は頼まれて柿の実を販売する約束をしたのだが、引き渡しの前日に庭中のあらゆる柿の実が落ちてしまったのが落柿舎の名前の由来である。

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落柿舎の柿

落柿舎滞在中に芭蕉が書いたのが嵯峨日記である。芭蕉は本書で、「憂し」とか「さびし」といった言葉にこだわっている。芭蕉の句に、

 

 うき我を さびしがらせよ かんこどり(芭蕉)

 

というのがある。

 

 閑古鳥よ、気分の塞いだ私の心を寂しくしておくれ

 

という意味だと思うのだが、よく私にはわからない。わかるのは「憂し」を否定し、「さびし」を肯定しているということである。「憂し」は気分が塞いでいることだから、否定するのは当然だろうと思う。ただ「さびし」、つまり寂しいという気分を肯定し、憧れているのはなぜだろう。ちなみに「さびし」を調べてみると、

 

 なにかが失われて物足りない、活気がなくなりさびれている

 

という意味だそうである。

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落柿舎にて撮影

嵯峨日記では西行のつぎの句も引用されている。

 

 とふ人も思ひたえたる山里の さびしさなくば 住み憂からまし(西行)

 

この句にも「憂し」と「さびし」が含まれている。西行は塵界から離れ、山里に独居しているのだろう。

 

 訪れる人も思い浮かべることができなくなったこの山里であるが、もし”さびしい”と いう気分がなかったならば、住んで憂鬱であっただろう

 

西行においても「さびしい」という気分が肯定されているのがわかる。むしろ「さびしさ」を求めて独居しているのだ、とさえ主張しているように思われる。

ところで芭蕉のあとの時代になるが、与謝蕪村(1716-1784)という俳人が出て、彼もまた「さびし」の句を詠んでいる。

 

 さびしさの うれしくも有 秋の暮(与謝野蕪村)

 去年より 又さびしいぞ 秋の暮 (与謝野蕪村)

 

ここにいたって、「さびし」は完全に肯定されてしまった。さびしいことが蕪村にとってはかえって嬉しいのだ。今年の秋の暮のほうが一層さびしくて嬉しい、と喜んでさえいるのである。

混乱するばかりだが、もしかするとこういうことではないだろうか。学生であれ、社会人であれ、なんであれ、人としてこの世にある以上は世間との交わりの中で生きている。それは喜びであることもあるし、煩雑に思うこともある。面倒なことの方が多いだろう。この煩雑な思いが「憂し」。「憂し」は社会生活上どうしても生じるものであるが、それが埃のように少しずつ少しずつ積もっていくと、やがて限界点に到しようとする。そうなると人は”独居”願望をいだく。現代風にいえば、”引きこもる”という意味に近いだろう。或いは今こうしているわたしがそうであるように、生活の現場を離れ、ふらふら旅に出るという行為も、独居に類似しているかもしれない。では旅をしたり、引きこもったりする目的はなにか。「さびし」を感ずるため、といえるのではないか。さびしさを求めて、ふらふら旅に出る。

今もそうだ。天龍寺の方丈庭園はたしかにすばらしかった。だが人がどんどん増えてくると、どことなく落ち着かない。きっとそれが「憂し」で、「さびし」が失せたからだ。竹林の道を抜け、人がまばらな常寂光寺は「さびし」かった。それがとくによかったのだろう。誰であれ、旅する者は、心の底では人気(ひとけ)のないところを渇望している。

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落柿舎付近にて撮影

落柿舎の外には素朴な風景が広がっている。人通りも少なく、こんなにいいところ、さびしいところはないかもしれない。

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落柿舎にて撮影

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「俳聖かるた」落柿舎の受付で購入できる

(終わり)

和歌のふるさと常寂光寺の紅葉 (嵐山周辺)

天龍寺をあとにし、竹林の道を抜けると、賑やかだった人通りも静けさを取り戻してきた。北に向かう小道は赤く紅葉し、田舎道を歩いているようだった。

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竹林の道を抜けて常寂光寺へ向かうみち

田舎道を北上していくと常寂光寺がある。

この寺は禅寺ではなく、日禎という日蓮宗の人が1596年建立した寺である。

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常寂光寺山門

日禎は気骨のある人で、豊臣秀吉の絶頂の時に反抗している。秀吉は自分の祖父母のために千人の僧を招いて食事を供し、法要を行おうとした。場所は自身が建立した京都方広寺である。方広寺は天台宗である。このとき秀吉は宗派の別なく僧を招待した。日禎は日蓮宗の教義である不受不施義の教えを守って招待を断った。不受不施義とは他宗の施しは受けもしないし、与えもしないという意味である。このため一時京都を逃れ、佐渡などに放浪した。やがって戻って建立したのがこの寺である。隠棲のための寺だったから、規模は小さい。が、眺めがすばらしく、寺域全体が紅葉のために紅く染まっていた。

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常寂光寺境内の紅葉

日本人であれば誰でも知っている百人一首は藤原定家(1161-1241)という歌人が選んだもので、正式には小倉百人一首という。小倉というのは小倉山のことで、この常寂光寺の背後の山がそれである。常寂光寺が開かれるはるか以前、藤原定家はここに住し、和歌を詠み、百人一首を編んだ。

 

 吹きはらふもみぢの上の霧はれて嶺たしかなる嵐山かな (定家)

 

(終わり)

 

 

 

天龍寺から竹林の道を抜けて

京都での最初の泊まりは町家を利用した。古い家の構造はそのまま残した上で、清潔さを保ためのメンテナンスが施されている。歯ブラシなどのアメニティー、コーヒーなども据え置かれているので便利だ。もちろんスタッフがいないから、気も休まる。ただタクシー運転手にとってはかなり厄介なのだという。彼らは何十年も京都の町を走り尽くして知らない場所はないといっていい。が、さすがに町家という元民家の場所まではわからないことが多いらしい。住所を告げても、周辺までしかわからない。

「知らない旅館はないという自負はありますが、町家まではねえ。困りますよ。」

運転手によると、町家を利用する旅行客は増えているということだった。老朽化した町家に多少の手入れをし、観光客に貸し出すというビジネスモデルは投資も少なくて済むし、当然町の景観の保全にも貢献するのですばらしいアイデアだと思う。ただし、一般の閑静な住宅街の中にあるので、外国人観光客(に限らないかもしれないが)が大勢で宿泊し、夜通し酒盛りされると近所迷惑になるというリスクはあるかもしれない。

 

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天龍寺三門

さてこの日は嵐山を散策するため、朝九時に町家近くの停留所から46系統のバスに乗車して南下。バスの中で一日乗車券(大人500円、子供250円)を購入し、千本丸太町で93系統に乗り継いで西の嵐山方面へ向かった。

最初、世界遺産でもある天龍寺に参拝した。天龍寺の方丈庭園”曹源池”は夢窓疎石(1275-1351)の作である。疎石は天龍寺の開山でもある。

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天龍寺方丈

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天龍寺方丈の達磨禅師

夢窓疎石と後醍醐天皇(1288-1339)の関係は1325年、後醍醐天皇が夢窓疎石を京都に招いて南禅寺の住持にしたことに始まっているようだ。なぜ招いたのか、よくわからない。後醍醐天皇ほど権力好きだった天皇も珍しく、権力とは対極の思想をなすところの禅になぜ関心をもったのだろうか。もっとも後醍醐天皇にとっては禅の中身には関心がなく、当時群を抜いて高名だった夢窓疎石を自分の手元に招き寄せることで、自身の存在感を示したかったのかもしれない。

1333年には足利尊氏と共闘して鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇だったが、二人はまもなく袂をわかち、激しく対立する。1339年、和解することなく後醍醐天皇は崩御。これを弔うように足利尊氏にすすめたのが夢窓疎石で、このために創建されることになったのが天龍寺である。足利尊氏は歴史上の有名人であるが、あまり人気がない。天皇と対立したためだろうか。だがいくら死去したとはいえ、血を流し合った喧嘩相手のために一寺を建立するなどというのは、味方の目もあり、常人の神経では到底できないことではないだろうか。当然大反対する者も少なくなかっただろう。このあたりに尊氏の魅力があると思うのだが、滑稽なことに尊氏には建立するほどの大金がなかった。自分のために味方して戦ってくれた者に、惜しみなく土地を与えてしまっていたからである。それで疎石はすかさず、

「中国と貿易して稼いだらどうですか?」

とすすめたという。尊氏も常識で計れない男だが、疎石もただの禅者ではない。尊氏はすすめに応じてさっそく貿易船(天龍寺船と呼ばれた)を仕立て、日本の物品を中国で売り、中国の物品を日本で捌き、その利益で天龍寺を建立した。

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天龍寺方丈庭園の紅葉

天龍寺の庭園は広々としていて、贅を尽くしているが、夢窓疎石の人柄が反映されているためか、見る者を圧倒するような権力の気配はなかった。ただ、昼に近づいてくると観光客の数がおびただしくなってきたので、三門に戻り、北上してまもなく西に折れ、竹林の道を歩いた。

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竹林の道

竹林の道も往来の人々で賑わっていた。無数の竹が沿道の両脇に聳え、青い屏風のようだった。尽きたところで、道は南北に分かれていた。北にすすむつれ、人通りは次第に少なくなっていった。どうやら観光客が集中するのは天龍寺周辺と竹林の道までであるらしい。しばらく坂道を下り、やがて道が平坦になると、どことなくのんびりとした風景になっていった(終わり)。

宇治茶と上林家のこと(京都)

すでに日も落ちはじめ辺りが暗くなってきた頃、茶葉の販売と喫茶もできる上林三入という店に入った。店の二階には「三休庵宇治茶資料室」があって、誰でも無料で入ることができ、歴史を知ることができる。”初代三入と上林三入本店”という説明書きには、

初代上林三入は、戦国時代の終わりから江戸時代のはじめにかけて、宇治茶師の一人として活躍した人物です。宇治川下流の槙島村、今西家に生まれ、はじめ三右衛門といった彼は、宇治郷の藤村家に養子として入り、三入と名乗ります。

槙島を介して宇治川の流れの向こうにある伏見には、有力な武家が軒を並べ、賑わっていました。三入はここで将軍の取り巻き大名を中心に、多くの武将たちと交流をもったようで、彼に宛てた書状には、当初から藤村と上林の両方の名字が用いられました。

寛永15年(1638)、家督を二代目に譲ると、自らは三休と称します。以後の歴代も隠居後は、三休を名乗ることを通例としました。ここ「三休庵」の命名も、これに因んだものです。ちなみに初代三休はその後もよくながらえ、万治3年(1660)、92歳で大往生をとげました。

三入家は、その後十数代つづき、明治のはじめ、大半の旧御用御茶師が没落するなか、茶業経営を維持した数少ない一家となります。

とある。

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上林三入店舗内にて撮影

日本に最初に茶をもたらし、根付かせたのは栄西(1141-1215)であるというのが定説となっている。栄西が中国留学したのは二度で、28歳と47歳のときだが、いずれのときに茶種を持ち込んだのかよくわからない。勝手な想像だが、28歳の若いときには新仏教の理論を会得しようという気持ちが強く、理論以外のものも抱き合わせて持ち帰ろうという余裕は2度目の留学のときのように思う。いずれにしても12世紀末には日本にもたらされ、京都での栽培が始まったのだろうと思われる。

話は脱線するが、以前書いた記事で東福寺のことについて触れたが、東福寺の1世円爾弁円は駿河(静岡県)の出身で、宇治茶と並ぶブランドである静岡茶は、彼が晩年静岡に戻って普及させたのが始まりだという。

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上林三入店舗内にて撮影

その後室町時代に入って、8代将軍足利義満(1358-1408)が宇治茶の価値を認めて保護したことにより大いに発展した。さらに戦国時代に入って、織田信長による保護に続き、豊臣秀吉も積極的に保護する。この時秀吉に茶園の管理経営を任されたのが上林家だった。上林一族は宇治郷の代官として、また茶頭取として大いに栄えたらしい。京都大徳寺は千利休が禅修行の場とし、秀吉を激怒させ切腹の原因となったといわれる金毛閣が有名な禅寺だが、秀吉と利休の当時、大徳寺に供された抹茶も上林一族の茶園で摘み取られたものに違いない(終)。 

三星園上林三入本店

純正宇治茶専門店・三星園上林三入本店

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店舗前にて撮影