旅する人々 ー日本をちょこちょことー

自分たちの旅の様子や海外からの友人たちの旅を紹介しています。

宇治の興聖寺(京都)

東福寺塔頭の光明院をあとにしたのはすでに二時過ぎだった。

わたしたちは再び奈良線に乗り、宇治駅に向かった。宇治茶を買い付けたかったためである。が、わたし個人としては気になることがあった。道元のことである。道元は日本曹洞宗の開祖である。1200年に生まれ、幼くして父母を失い、おそらく母方の祖父で、摂政関白まで務めた藤原基房(1144-1230)に養育されたと思われる。幼年時代は京都宇治で過ごした。その後比叡山で天台宗を学ぶが失望し、建仁寺で禅を学びつつ中国留学の機会を待った。24歳のとき宋に渡り、中国僧如浄から厳しい教えを受け、法を継いで日本へ帰国する。再び建仁寺に滞在したあとは、近畿を転々とし、34歳のとき興聖寺を開創している。が、やがて興聖寺は経営の苦しくなった比叡山延暦寺の僧兵の攻撃を受けたために、道元は越前(福井)の逃れ、永平寺を開創するに至る。以前の記事で書いたことだが、現在の永平寺はわたしの観察した限りでは観光地化がすすみ、テーマパーク化していて、想像していたものとは著しく乖離していた。

nihon-tabi.hatenadiary.com

 そのことが喉の奥に刺さったトゲのようで、わたし自身がすっきりしない気分だったし、道元禅師にもなにか申し訳ないような気持ちがしていたのである。道元その人自身はその後の商業化とは関係がないからである。

宇治駅を降り、宇治川沿いに向かう間そのことばかりを考えていた。いくつかの茶店を回っているときも気がそぞろで落ち着かなかったのだが、すでに時間は日が傾きはじめており、たとえ興聖寺へ向かっても拝観終了となっている可能性が低くなかったので半ば諦めていたのである。といって明日以降は京都駅以北を周回する計画を立てており、宇治に戻る余裕はなかった。わたしは思いを改め、たとえ無駄になってもいいから門前だけでも見ておこうと思った。そうすることが道元禅師及び曹洞宗に対する礼儀であるような気がしたのである。

わたしは靴ひもをきつく結び直し、全速力でかけた。普段仕事の合間に運動しているので体力に多少の自身はある。宇治川南沿いの茶屋通りを駆け抜け、世界遺産の平等院には目もくれず、川端の土手を南下して宇治川にかかる喜撰橋と朝霧橋をわたって対岸に至り、そこから再び全速力で南下していくと興聖寺の坂下についた。琴坂という200Mのこの急な坂道を上り切れば到着である。この頃にはわたしの呼吸は虫の息で、奔っているのか歩いているのか、ヨロヨロになって登り切り、寺門をくぐって受付の雲水に恐るおそる、

 「まだ拝観できますか」

と尋ねた。ほかに参拝客は誰もいなかったのだが、

 「大丈夫ですよ」

走り甲斐があったというものである。走り切って気分が高揚していたのか、余計なことをつい言った。

 「実は昨日永平寺に行ってきたんです」

末寺の雲水にとっての永平寺とはどういうものなのだろうか、という興味があったのである。支社支店に勤務する若いサラリーマンの、本社に対する印象に近いのだろうかと考えたりした。が、雲水はただ、

 「永平寺はもう雪でしたか?」

とだけ言った。遠い永平寺を思いやるような、故郷の老親をいたわるような優しい口調のように感ぜられた。

f:id:nihon-tabi:20160102113245j:plain

興聖寺 方丈(奥)と内庭

興聖寺はさっと見てしまえば10分で見終わることができるような小ぶりな寺で、庭も大きくはない。庭は岩山を表現したものか、石を多数配置していた。臨済宗の洗練されたデザインとは対照的に、ゴツゴツとした朴訥な景観を呈している。この飾り気のない素朴さこそ、道元禅師の生涯と思想に一致しているように思われた。

f:id:nihon-tabi:20160102104614j:plain

興聖寺山門 内側から外に向かって撮影

一通り拝観し終わって山門を出た時、登っていたときには気づかなかったが、山門前の琴坂の紅葉が夕日に映えて赤く燃えるようだった。

f:id:nihon-tabi:20160102112824j:plain

興聖寺山門前の琴坂 紅葉の名所とされている

琴坂を下り切り、北に折れて宇治川沿いに出ると、夕日はますます光線を豊かにし、紅葉の色彩を一層美しく際立たせていた。喉の奥のトゲが取れるような思いだった。

f:id:nihon-tabi:20160102112845j:plain

f:id:nihon-tabi:20160102112855j:plain

f:id:nihon-tabi:20160102112905j:plain

宇治川沿いの紅葉

(記事終了)

 

東福寺と光明院の秋(京都)

越前福井の旅を終え、福井駅で列車を待っている。

大阪行き特急サンダーバード14号に乗った。京都までは約1時間20分である。12月7日正午前に到着した。京都駅の人の多さは福井とはまるで違う。名高い京都の紅葉を一度は見てみたかった。とはいえ、普通に考えればこの時期紅葉はほぼ散り終え、すでに冬の装いに入っていてもおかしくない。実際福井では紅葉はほぼ見られなかった。京都の紅葉最盛期は11月下旬という。仕事の都合上この時期になってしまった。

ともあれ京都駅で奈良線に乗り換え、東福寺駅へ向かった。駅を降り線路沿いに商店街を南下し、やがて東に折れると東福寺の寺域に入った。

f:id:nihon-tabi:20160101114917j:plain

東福寺に向かう途中で

お国自慢になってしまうが、日本の紅葉は世界でも最も美しいものの一つとされているらしい。いくつか理由がある。紅葉するのは落葉樹に限られるが、地球上でも東アジア・中央及び西ヨーロッパ・北アメリカ東部、中東などにしかないそうである。また日本では紅葉する樹木の種類そのものが多く、たとえば紅葉を代表する楓の種類ではヨーロッパとアメリカが13種類であるのに対し、日本では2倍の26ある。さらに欧米の紅葉が主に黄色に変色するのに対して、日本の紅葉は黄色だけでなく、赤く変色するものも多い。同じ赤でも樹木の種類によって微妙に異なるために複雑な色合いを醸す。また日本は四季の区別が明確で、夏と秋の温度差の激しさ、秋に入ってからも一日の寒暖の差が大きいために、冴えた鮮やかな色彩を放つ。加えて日本には常緑樹や苔の緑色、枯れ葉の茶色などが混じってとくに複雑な色彩となる。これらの多くの要因が日本の紅葉を世界的なものにしているらしい。

f:id:nihon-tabi:20160101130454j:plain

東福寺 臥雲橋から日下門までの路

日下門から東福寺に入り、通天橋に行く。東福寺は京都五山の第四位、1236年の創建で禅寺としてはかなり古い部類に入る。もともとは純粋禅でなく、初期においては伝統仏教の一部として禅を伝えている。最初に寺を開き、住職一世となった(開山という)円爾弁円(1202-1280)は静岡県の人で、最初天台宗を学ぶが、のち禅宗に関心を寄せ、鎌倉寿福寺などでの修行を経た後、1235年中国に渡り中国五山の第一の禅寺万寿寺にて無準師範の法を継いでいる。帰国後は博多で承天寺を開き禅宗を広めたが、やがて天台宗による迫害を受け、東福寺の開山に迎えられた。東福寺では禅のみではなく、伝統仏教と抱き合わせたことが東福寺の発展につながったのかもしれない。政治的妥協といってしまえばそれまでだが、妥協することによってたとえ遠回りになったとしても禅宗が根付く道を選ぶべきだと考えたのかもしれない。

寺院の広大さは鎌倉の小ぢんまりとした寺院に慣れ親しんできたわたしとしては、いささか戸惑いを感じないではなかったが、広大といっても権力と結合した嫌味があるわけでもなく、無限の広がりを見せる紅葉の荘厳さにはただ見とれるほかはなかった。

f:id:nihon-tabi:20160101114929j:plain

通天橋にて撮影

f:id:nihon-tabi:20160101114924j:plain

通天橋にて撮影

f:id:nihon-tabi:20160101114956j:plain

東福寺方丈庭園 重森三玲作(1938)

f:id:nihon-tabi:20160101115004j:plain

東福寺方丈庭園 重森三玲作(1938)

東福寺方丈庭園を見学したあと寺内を南下し、三門の前を通り過ぎて六波羅門を出た。六波羅門を出て少しゆくと光明院という塔頭がある。塔頭というのは祖師や、或いは高僧などが死去したのち、彼らを慕って寄り添うように建てられた小院のことで、寺の中にあったり、寺の外のすぐ近くに建てられていたりする。光明院も東福寺の数多い塔頭のうちの一つである。東福寺に限らず、塔頭の多くは非公開とされ、あるいは特別拝観という形で限定的に公開しているのが通例である。光明院の場合は通年公開されているらしい。京都の禅寺を巡る楽しみは、このような一般的にはあまり知られていない小さな塔頭を拝観することだと思う。塔頭に関心をもっている観光客はまだまだ少数派で、おそらく多くの観光客は大寺院の大伽藍や方丈庭園を見終わった時点で次の大寺院へと流れてゆくだろう。

f:id:nihon-tabi:20160101115020j:plain

光明院 東福寺塔頭

f:id:nihon-tabi:20160101115012j:plain

光明院 東福寺塔頭

f:id:nihon-tabi:20160101115024j:plain

光明院 東福寺塔頭

f:id:nihon-tabi:20160101115029j:plain

光明院 東福寺塔頭

 

 

 

 

白山平泉寺

 永平寺を去り、白山平泉寺へ向かったのは昼のことである。

雲が鼠色に立ちこめている。

白山平泉寺は永平寺よりも内陸にある。白山は日本三霊山のひとつで、古代から信仰を集めてきた。ちなみにほかの二山は富士山と立山である。白山の美しさについては以前「夢幻の国」の記事で紹介したので参考にしてほしい。

nihon-tabi.hatenadiary.com

しかし白山平泉寺についてはほとんど日本人の間でさえ知られていないのではないかと思われる。現地に到着しても車はまばらで、人は少ない。閑散としている。寺域に入る前にごく新しく建設されたと思われる歴史館(白山平泉寺歴史探遊館まほろば)があり、平泉寺の歴史が紹介されている。しかしわたしの心を引きつけたのは歴史館で展示されていたパネルよりも、受付で手渡されたA4サイズの紹介資料だ。両面印刷になっており、一方は散策マップで手書きの地図に説明がびっしりと書かれている。もう一方にも白山平泉寺の歴史がやはりびっしりと、丁寧に書き込まれているのである。白山平泉寺を大事にしていきたいという情熱がこのA4サイズ一枚の紙に吹き込まれているといった感じで、これを入手しただけでとても気分がよくなった。

歴史としては泰澄が717年に平泉寺を開いたとされている。

平泉寺は717年に泰澄が白山に登ろうとして開いた所。池の かたわらで祈っていると、白山の女神が現れた。この池は「平清水」「平泉」と呼ばれここを中心に修行者のための宿坊、白山を礼拝する拝殿や寺院が建ち並び発展した。 「まほろばパンフレット」から引用

山を神の降臨する場とみなしたり、山そのものをご神体とする信仰はいつ発生したのだろうか。峻厳な山容に畏怖し、富士の如き裾野の美しさに神秘を感じるのが人間の本能的な感覚であるとすれば、山に狩猟民が棲みついたときからすでに始まったのかもしれない。

f:id:nihon-tabi:20151231124841j:plain

平泉寺(正式名称は白山神社。福井県)

とすれば、泰澄が開いたというのは仏教という「かたち」がはじめてこの地に入ってきたということを意味するだけで、白山に対する信仰そのものはそのずっと以前から開始されていたと考えるべきだろう。

神社やお寺に食べ物や財産をすすんで寄付することを寄進というが、平泉寺はとくに貴族たちからの寄進が多かった。寄進を受けた寺院は恩恵に報いるため、貴族の土地を防衛する義務を負った。安定した政治機構をもつことのできなかった中世、貴族たちは土地の保護を実力のある組織に委ねたのである。実力とは武力のことであるから、平泉寺は仏教寺でありつつも、内実としては武装集団だった。つまりゴロツキのたまり場だったわけである。平安時代も終盤に差し掛かると、源平という武士の集団が現れ、独自に寄進を受け、土地を確保するようになる。平泉寺にとってみれば、強力なライバルの出現である。そのために平泉寺は妥協の産物として、日本最高の仏教権威である比叡山延暦寺の系列に自ら組み込まれることとした。もし平泉寺の管轄する土地が他人によって脅かされれば、親である比叡山延暦寺も武力を発動しなければならない。当然比叡山も当時立派な武装集団である。もはやヤクザのシマ争いとほぼ変わりはない。

福井県の海岸沿いに有名な東尋坊は、もともとは地名ではなく、僧の名である。

f:id:nihon-tabi:20151231132836j:plain

東尋坊(福井県坂井市)

東尋坊は平泉寺の僧である。凄まじいほどの腕力の持ち主で、わがままで、誰も手のつけようがなかった。周囲の人間が一計を案じ、東尋坊を招いて酒席を催すことにした。春の陽光のうららかな一日で、眼下には海が穏やかで、日の光をキラキラと照り返していた。福井はいまも旨い日本酒がたくさんあるから、当時もたくさんのお酒があったのだろう。人々は次々に東尋坊に酒をすすめ、いつしか彼は気分よくイビキをたてて寝入ってしまった。完全に眠りに落ちたのを確認した人々は重い東尋坊の身体を転がし、海に突き落としたのである。海中に彼の身体が沈むやいなや、それまでのうららかな春の陽気は一転し、黒々とした雷雲が立ち込め、突風が吹き、透明だった海は地底の砂を巻き込んで茶色く濁り大きくうねった。うねった波は東尋坊を突き落とした人々をも呑み込んだそうである。

今回の旅の初日、わたしは越前ガニを食べるために東尋坊へ来ている。

nihon-tabi.hatenadiary.com

 この日天候はすこぶる荒れ、店舗のほとんどはシャッターを下ろしていた。越前ガニを食べたあと、海岸まで歩いていったのだが、突風がいよいよ激しく、雨を伴い、歩くことさえままならなかった。カメラを向ける余裕も当然なかった(掲載写真は後日のものである)。これ以上先にすすむと、突風に横倒しにされ、万が一海に転落することもなくはないと思ったほどで、東尋坊伝説も、このような一日を念頭に描かれたものと想像した。

東尋坊のような悪僧(だけではないだろうが)が最盛期に8000人、僧の収容施設である僧坊は6000にのぼったという。現在の平泉寺の寺域ではその発掘調査がすすめられていて、我々観光客も立ち入ることができる。

f:id:nihon-tabi:20151231125039j:plain

僧坊跡地 この階段状の地形に6千の僧坊がびっしりと立ち並んでいた

f:id:nihon-tabi:20151231125044j:plain

発掘現場 石垣が露わになっている 秋には熊が出るらしい(笑)

さて強盛を誇った平泉寺もやがて滅亡の時がやってくる。

室町後期になると、越前や加賀で浄土真宗が大流行する。浄土真宗は阿弥陀仏のお力をひたすら信じることさえできれば、極楽へ行けるというもので、貧しい農民達の間で信仰された。従来の仏教が財物の寄進を要求したり、難しい仏教理論を理解することを要求したのに対し、浄土真宗では南無阿弥陀仏と唱えさえすればよいとしたので、無学で貧しい農民にとっては受け入れやすかったのだろう。平泉寺は比叡山の系列に入ったこともあり、従来仏教に属し、農民に対しては差別意識があった。浄土真宗の信徒たちはやがて組織化され、武力集団に成長する。最も有名なのは1488年の加賀(現石川県)の一向一揆だろう。このとき加賀の大名が倒され、以後100年間に渡って信徒たちによる統治が行われた。その波が平泉寺にも押し寄せることになる。

1574年石山本願寺(注:大阪)の顕如が加賀越前の門徒に、平泉寺の討伐を命令。一揆の地元軍が村岡山(注:平泉寺の近く)に砦を築いたのに驚いた平泉寺の僧兵が攻め込んだ。その頃、一揆側の決死隊は手薄になった平泉寺の背後から放火。慌てて引き返そうとした僧兵も討たれ、平泉寺は火の海に・・・。 「まほろばパンフレット」から引用(一部編集)。

以後平泉寺は復興され、上野(東京)の寛永寺の系列に入って穏やかに時を重ねている。平泉寺の域内は森閑としている。僧兵8000の猛々しさはどこにもなく、歌った場所も対象も違えど、

 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

という芭蕉の句がぴったりする。

f:id:nihon-tabi:20151231124909j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231125016j:plain

 平泉寺(白山神社)の寺域。芝生のように見えるのは苔。

寺域全体に広がる柔らかな緑色の絨毯は芝生ではない、苔である。わたしは西芳寺を見たことはないが、歴史小説家の司馬遼太郎氏は平泉寺の苔のほうが優れているとしている。もっとも例のA4サイズのパンフレットにはわざわざ、

現在、杉の古木が増え日当りが良くなっています。

司馬遼太郎氏が訪れた頃より苔の状態が悪くなっています。

と書くあたり、謙虚さが現れていて清々しい。観光地されていなく、またする気もなさそうで、といって訪れる人には親切である。

f:id:nihon-tabi:20151231125010j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231124938j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231124930j:plain

白山神社社務所の裏にある枯山水の庭。細川高国(1484-1531)の作と伝えられる。臨済宗の巨刹に見られるような完全さはなく、ほどよく雑な感じが周囲の大自然と調和している。

さて平泉寺を抜けて奥へすすみ、坂道を登ればいずれ白山の山頂へ辿り着くだろう。が、今回は時間と装備の関係で行かなかった。代わりに”i北陸”という北陸地方を専門的に紹介するブログサイトからいくつか写真を拝借して、白山の様子を紹介しておきたい。

f:id:nihon-tabi:20151231195143j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231195150j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231195157j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231195205j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231195213j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231195221j:plain

f:id:nihon-tabi:20151231195226j:plain

i北陸 | 石川・金沢、富山、福井のオススメイベントや観光地等を紹介するブログ

ほか参考リンク:

白山平泉寺 | 福井県勝山市 (写真がどれも美しい)

 

 

 

 

 

 

 

 

永平寺と道元のこと

加賀の温泉郷を出て、車で白山神社(神仏分離以前は平泉寺といった)に向かった。

実際には白山神社に向かう前に、永平寺に寄っている。

今回の旅のテーマは禅寺を巡ることであり、永平寺に行くことは念願の一つだった。が、わたしは永平寺について書くことをずっと躊躇していた。書こうとすれば批判的になりそうで気が重たかったのである。

永平寺を開いた道元(1200-1253)は日本における禅宗の草創期に活躍し、曹洞宗の開祖となった。わたしが禅に興味をもったのは準鎌倉人としては自然な成り行きのことで、日本で最初に禅が根付いたのは鎌倉である。鎌倉には今も数多くの禅寺が残り、わたしの禅に対する興味は禅寺における瀟洒な感じの庭の美しさと、禅という言葉がもつ神秘的なイメージによるものであって、禅宗の中身についてはほとんど知らない。だから禅の内容についてなにかを語り得る資格があるわけではない。

武士政権である鎌倉幕府に保護された禅は当然のことながら武士の間に浸透していった。江戸期に入って京都大徳寺に沢庵という有名な禅僧が出ると、彼は『不動知神妙録』を表し、剣の達人の心境が禅の境地と一致することを説いた。武道に多少の興味があるわたしとしては、禅に対する一方的な憧れはこのあたりから出発している。中国の高名な禅僧で鎌倉円覚寺の開山となった無学祖元(1226-1286)はまだ中国(南宋)にいた時、北方から侵攻してきた元軍の兵士に取り囲まれ、白刃の下に両断されようとするとき、

 電光影裏斬春風(電光影裏に春風を切る)

の偈を読み、元兵を退散させたという。沢庵和尚の解釈によると、

無学(無学祖元のこと)の心は、太刀をひらりと振上げたるは、稲妻の如く電光のぴかりとする間、何の心も何の念もないぞ。打つ刀も心はなし。切る人も心はなし。切らるる我も心はなし。切る人も空(くう)、太刀も空、打たるる我も稲妻のひかりとする内に、春の空(そら)を吹く風を切る如くなり。一切止らぬ心なり。風を切つたのは、太刀に覚えもあるまいぞ。

となる。私を切り伏せても、私は空(くう)であるから、春の風を切るようにどのような手応えもないだろう、ということらしい。切り掛かった兵士も気味悪がって退散したのだろう。

ともかくもこういう武道的な内容が私の禅に対する興味の出発点だから、永平寺がどうのこうのと批判する資格はない。そもそも沢庵は臨済宗であり、永平寺の曹洞宗とは宗派も異なっている。とはいえ、私の禅宗に対する関心は武道と密接不離なものであり、武道とは自己の内面を厳しい修行によって律し、死をも恐れない境地を得るものであるというイメージを有する以上、曹洞宗のただヒタスラに座禅するという”只管打坐”の修行方法は、門外漢にとっては意味不明の禅問答を修行方法とする臨済宗よりも、むしろ武道に直結している感じがしてしまうのである。よりストイックな感じを受ける。勿論臨済宗にとっても座禅は重要な修行法であるから、これはわたしの勝手なイメージに過ぎない。

道元は1200年に京都に生まれ、幼い時、父母を相次いで亡くした。父は平安末期から鎌倉時代にかけて歴代の天皇を補佐した高官である源通親(異説あり)、一方母の伊子の父は摂政・関白を務めた藤原基房である。いわばエリート中のエリートの家系といっていい。だが、道元は幼くして父母を失った。以後母方の祖父である基房に養育されたようである。最初比叡山で天台宗を学んだが、18歳のとき下山した。当時比叡山で出世するためには家柄が高貴であることが必須条件であった。無論家柄に問題はない。むしろ出世の条件としてはこれ以上のものはなかった。それでも比叡山を下りたのは、そもそもが出世のためではなく、純粋に仏道を究めるためであったことを意味するのだろう。下山ののち、当時新興宗派であった禅宗の京都建仁寺に入っている。その後24歳のとき中国に渡り、各地の寺院を渡り歩き、師となる如浄と出会う。如浄の教えは

  • 国王・大臣に親近するべからず
  • 名誉・利得に関することを視聴するなかれ
  • 尋常応(まさ)に青山・谿水を観るべし

といったもので、権力に近づかず、自然に親しむように説いている。のち京都に戻り、興聖寺を開いたとき最初の説法で、

わが家風は草をたのみ、木をたのみとする。道場にもっとも好ましいところはこのようにやぶか林の中なのだ

と説いたというから、忠実に師匠の教えを守っていたといえるだろう。

 

車は早朝、永平寺の門前町に入った。門前町の店を行き過ぎるとき、何人もの人間が手を伸ばし、手招きする。

 「ここに駐車せよ」

ということらしかった。永平寺の門前に行くと、公営駐車場があり、結局そこへ停めたのだが、先ほどの手招きの人々は、 自分のところへ駐車させて金を取りたかったらしい。たくましい商売魂にいささかうんざりしたのだが気を取り直し、さっそく永平寺に足を踏み入れた。

f:id:nihon-tabi:20151226231625j:plain

*1

緩やかに傾斜する参道を上ると左手に通用門があり、ここで拝観料を収める。のだが、後にも先にも、拝観料を券売機で支払ったのはこの時だけである。なんとなくよくない予感がした。券売機に金を入れ、奥に進んでいくと、靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるようになっている。靴は備え付けのビニール袋に入れてガサガサ持ち歩かなくてはならない。奥に進んでいくと、広間で若い雲水が参拝者を相手に説教していた。が、よく聞くと説教ではなかった。参観のルールを説明しているのであった。修行僧にカメラを向けないように、といった細々とした注意をしている。一通りガイダンスが終わると、

 「おすすみください」

といって、我々は部屋の先へと導かれ、ぞろぞろ歩きすすんだ。あたかもテーマパークの案内のようである。そのあとさまざまの巨大な伽藍を、スリッパをつっかけたまま観て回ったのだが、なんだかもうどうでもいいような気分になり、まさしくつまらないテーマパークを巡っているような気分だった。だが道元禅師と永平寺の開創をすすめた波多野義重が眠っているという承陽殿はさすがに緊張感をもって参拝した。手を合わせているその時、若い別の雲水がやってきて、天井に吊り下った鐘を突き始めた。一定の間隔をあけて何度も突くのだが、そのうちに雲水はキョロキョロし始め、しきりに回廊の奥を気にしはじめた。やがて法衣の華麗な老僧が供の者を従えて姿を現した。わたしは完全に幻滅した。逃げるように階段を下り、迷路のように長い廊下を何度も曲がって入り口に戻った。よもやサラリーマン社会と同じような光景をここで目にするはめになるとは思わなかった。

永平寺が今あるような大伽藍を有するになったのは、道元以後のことである。道元時代の伽藍はどのようなものだったのか、今となっては想像のよすがもない。永平寺三世の徹通義介のとき、彼は伽藍を中国風に巨大にするため、中国に渡った。永平寺は何度も焼失しているので、当時のものはそのままでは残っていないが、基本形はこのときにできたのだろう。そういう意味では13世紀後半の中国の寺院の風格を忠実に残しているのかもしれず、そこに価値を見出すことはできるのかもしれない。が、「わが家風は草をたのみ、木をたのみとする。道場にもっとも好ましいところはこのようにやぶか林の中なのだ」という言葉は少なくとも今の永平寺には相応しくないだろう。

通用門を出、参道を下った。参道の脇には盛り土が施され、木々が天に向かって伸びている。地面や石や或いは木々までもが苔によって美しく緑色に覆われていた。永平寺開創からおよそ800年、この苔がいつからのものかわからないが、これだけが永平寺の長い歴史を伝えているような気がした。

f:id:nihon-tabi:20151226231653j:plain

*1:「春は花、夏ほとときす」の道元禅師の石碑

夢幻の国

毎年八月のお盆前後、実家の横浜に帰省した際には、必ず長野に出かけることにしている。

長野は両親の故郷であるということもあるが、上海の真夏のうだるような暑さの中で生活していると、長野の山上の涼やかで清浄な風はこの世でもっとも貴重なもののような気がしてくるのである。上高地もよかった。白馬も美しかった。私は登山家ではない。家族を連れて、せいぜい4時間程度で歩き戻ってくることのできる初心者向けの道をゆくだけである。それでも十分に新鮮な感動を味わうことができる。以前わたしはあまり山に興味がなかった。高校生の頃、蔵王や裏磐梯山を学校の活動として登った時、ほとんど苦痛以外のものを感じなかった。それよりも海辺に出かけて泳いだり釣りに没頭している方が楽しかった。今でも海浜の遊びは面白いと思うが、上海で生活するようになって自然から乖離しはじめると、山上の静けさ、荘厳さというものほど尊いものはないのではないかと思うようになった。年齢のせいもあるかもしれない。

日本の大きめの書店で山岳関係の書籍を探すと必ず目にするのが『日本百名山』である。おそらく山岳ファンにとっては必読の書なのだろうが、わたしのような初心者の山歩きには無用の本だと思って手に取ることはなかったのだが、今回の福井の旅で、はじめて読んでみたのである。

『日本百名山』の作者は深田久弥といって、石川県加賀市の生まれである。加賀市は福井県の県境に位置しており、実は今回の福井の旅でも夜は加賀市の旅館に寝泊まりしていた。深田久弥の故郷に宿泊したわけである。話はずれるが、加賀市には山中温泉、山代温泉といった温泉街がいくつかあり、それぞれに文化と風情がある。とくに山代温泉でお世話になった「あらや」という旅館はよかった。創業380年の歴史をもち、かつて魯山人(1883-1959)がこの地に滞在して陶芸に目覚めていった若い無名時代の頃、当時のあらやご当主がパトロンとして支援したという歴史的な興味のほかに、現在の女将がそういう歴史をいやらしく誇るということもなく、気さくで上品で親切だったのが印象的だった。

もともと『日本百名山』を知らなかった私は、この本のことを登山家向けの山岳ガイドブックだと思っていた。だがそれはまったくの誤解だった。深田久弥の文章は人をして山々の郷愁へと駆り立てる。故郷に山を持たないわたしのような人間の心までをも山に惹き付けようとする。中でも「白山」の項はとくに美しく懐かしく綴られている。北陸の山塊である白山は、この短い一文を以て、もっと日本人にも、また世界に知られるべきであると思う。以下引用する。

日本人は大てい ふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変わっても、その山だけは昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。

私のふるさとの山は白山であった。白山は生家の二階からも、小学校の門からも、鮒釣り川辺からも、泳ぎに行く海岸の砂丘からも、つまり私の故郷の町のどこからでも見えた。真正面に気高く美しく見えた。それは名の通り一年の半分は白い山であった。

純白の冬の白山が春の更けるにつれて斑になり、その残雪があらかた消えるのは六月中旬になってからであった。そして秋の末から再び白くなり始める。最初は冬の先触れとして峰のあたりに僅かの雪をおく。それがだんだん拡がって十二月の中頃には、もう一点の染みもなく真白になってしまう。そしてそれが翌年の春まで続くのであった。

(中略)

その加賀の平野でも、私のふるさとの町から眺めるのが最上であることを、私は自信をもって誇ることができる。主峰の御前と大汝を均衡のとれた形で眺め得るのみでなく、白山の持つ高さと拡がりを、最も確かに、最も明らかに認め得るのは、私の町の付近からであった。戦後私はふるさとに帰って三年半の孤独な疎開生活を送ったが、白山はどれほど私を慰めてくれたことか。

徹夜して物を書いた明け方、最初の光線が窓ガラスに射してくると、私は立上がって外をうかがう。もしハッキリ山が見えそうな天気であると、町はずれまで出て行き、そこから遮ぎるもののない早暁の静寂な白山を、こころゆくまで眺めるのを常とした。

夕方、日本海に沈む太陽の余映を受けて、白山が薔薇色に染まるひと時は、美しいものの究極であった。みるみるうちに薄鼠に暮れて行くまでの、暫くの間の微妙な色彩の推移は、この世のものとは思われなかった。

北陸の冬は晴れ間が少ない。たまに一点の雲もなく晴れた夜、大気がピンと響くように凍って、澄み渡った大空に、青い月光を受けて、白銀の白山がまるで水晶細工のように浮きあがっているさまは、何か非現実的な夢幻の国の景色であった。

(中略)

白山について語り出せばきりがない。それほど多くのものをこの山は私に与えている。

残念ながら今回の越前の旅では「夢幻の国の景色」を肉眼で味わうことはできなかった。たしかに北陸の冬は曇が重く、晴れ間は僅かであった。わたしはこの文章によって想像の中で夜の白山の冷え冷えとした美しさを想像するのみである。

Amazon.co.jp: 日本百名山 (新潮文庫): 深田 久弥: 本

 

越前和紙の貢献

二日目の朝も雨が降っていた。

この日も永平寺への参拝は見送り、越前市の武生という町に向かった。

このあたりは越前和紙の産地である。

わが国を代表する和紙の産地として、今も60軒あまりの和紙業者が技を伝える越前和紙の里。全国で唯一の紙の神様「川上御前」を祀る紙祖神『岡太神社・大瀧神社』を中心に、今も昔ながらの紙すきのたたずまいを見せています。*1

和紙生産は中国で紀元前1-2世紀頃前漢の時代に始まっている。その技術が朝鮮半島を経て日本に渡来するのだが、それがいつ頃なのか明確にはわかっていない。『日本書紀』には610年に伝来したと記載されているが、それ以前に伝わっていたという研究もあるようだ。越前市の人たちは1500年の歴史があると言っているから、日本書紀の記事よりも100年前に成立したと考えているようである。言い伝えによると、ある日突然美しいお姫様が村人たちの前に現れ、

「このあたりは田畑が少なく生活が苦しいであろう。幸い清らかな谷水に恵まれているのだから紙を漉いて生計を立てなさい」

と言い、自ら紙漉の仕方を村人に教えたのが始まりだという。

中国から伝わった製紙方法は麻を材料にしていた。が、麻はもろく、保存に適さなかったので、彼らは自生する楮を材料にして白くふっくらとした”和紙”を漉く技術を確立していった。こうしてできた和紙は見た目も美しく、強靭で保存に適していたのでその後長らく日本の文化と経済を支えることになる。

越前和紙の需要が高まるのは仏教の普及に伴って写経の必要性が生じたことによる。越前も大小の寺社が多かったし、奈良京都の寺社への供給地でもあったろう。平安時代に入ると和歌を書き記すために紙需要がさらに増え、武士の時代以降は政府や大名の公式文書に使用されるようになった。明治政府発行の統一紙幣にも越前和紙が指定され、紙幣製造はすべてこの地で請け負っている。芸術分野での貢献も巨大で、室町期や江戸期の屏風絵や襖絵、浮世絵、近現代では横山大観(1868-1958)や平山郁夫(1930-2009)などの日本画家が好んで使用したほか、海外ではピカソ(1881-1973)が愛用した。

越前和紙の里で紙すきをさせてもらうことができる。

①紙を漉く

f:id:nihon-tabi:20151220180134j:plain

②乾いていない状態で装飾を施す

f:id:nihon-tabi:20151220175905j:plain

f:id:nihon-tabi:20151220175917j:plain

③下から水分を吸引して乾燥させる

f:id:nihon-tabi:20151220175927j:plain

④30分ほど放置して完成

f:id:nihon-tabi:20151220175940j:plain

*1:当地のパンフレットより

越前ガニの歴史

わたしは今、小松空港に向かう飛行機の中にいる。

機内で道元の経歴をおさらいしていると、あっという間に飛行機は降下を開始した。上海から石川県小松空港までは僅かに2時間で到着する。中国人のあいだで日本への旅行は大ブームだが、小松空港方面はあまり人気がないらいしい。日本人ビジネスマンがほとんどで、旅行者らしき人はほとんどいない。

降下している飛行機の窓から外を見下ろすと、日本海が鈍く時化っている。天候は荒れているらしい。冬の北陸は晴れ間が少ないという。今回わたしは道元に少しでも近づいてみたいという気持ちで旅を計画したのだが、道元の人生を思うとむしろ荒れた日本海の方が、己に厳しかった彼の人生によく似合うという気もする。

12:30ほぼ定刻通りに空港に到着した。

12月初旬のその日、日本海沿岸は大荒れで、後になってニュースで確かめたところでは東北以北は大雪に見舞われたそうである。さすがに空港付近は雪は降らなかったが、風が強く小雨が混じって刺すような寒さだった。空港付近で車を借り、一挙に南下して福井県に入った。

三国港を目指している。三国港では冬のこの時期、越前ガニが漁れる。なんのことはない、道元に近づきたい、などと言ったものの、やはり旨いものを食べるのは旅行の醍醐味である。日本の新鮮な山海の幸は中国で生活するものにとって御馳走である。

越前ガニはズワイガニの一種だが、この地域で産するものを特に越前ガニと呼ぶ。赤い甲羅に黒真珠のような斑点が付着しているのが形態上の特徴であるが、この黒真珠はヒルだそうで、南北の海流がぶつかるこのあたりの海域では栄養価が高く、ヒルが寄生するのだそうである。甲羅に付着しているだけなので、中身に影響はない。

越前ガニは冬期のみ収穫できるのだが、無論越前ガニたちは一年中海底に生息している。かつて越前ガニが乱獲され、収穫量が激減したために冬のこの時期だけに収穫が許可されているのである。当然値段も高くなる。高ければ高いほど、一度は食べてみたいという欲望も高まる。

古代の越前人はいくらでも漁獲して食べ放題だっただろうから、なんとも羨ましいことだなあと下品な想像をしたのだが、のち調べてみると越前ガニの歴史は意外に浅く、16世紀にようやく始まったのだそうである。これは越前ガニが深海200-300mに生息するためで、それまでそれほどの深海の海底をさらう漁法は確立されていなかったらしい。

時代は移り変わり、明治に入ると、越前ガニは皇室献上の品に指定され、以後毎年三国港で水揚げされた最高のものが皇室に献上されている。これらは皇室献上級と呼ばれ、無論一般人でも食べることはできる。おそらく一時期の乱獲というのは皇室献上品に指定されたことも大きな要因だっただろう。

三国港に到着した。自殺の名所という不名誉な肩書きをもつ東尋坊界隈には越前ガニの店が立ち並ぶ。わたしたちはそのうちの賑やかな一店舗を選び入った。私には食レポの才能がないので、以下写真を参考にして頂きたい。皇室献上級ではないが、立派な蟹であった。調理前に店の方に持たせていただいたのだが、ずしりと重く、美しい姿をしていた。調理されてもなお美しく、二度と忘れられない味であった。

f:id:nihon-tabi:20151220015047j:plain

 

f:id:nihon-tabi:20151220015010j:plainf:id:nihon-tabi:20151220014922j:plain