旅する人々 ー日本をちょこちょことー

自分たちの旅の様子や海外からの友人たちの旅を紹介しています。

白山平泉寺

 永平寺を去り、白山平泉寺へ向かったのは昼のことである。

雲が鼠色に立ちこめている。

白山平泉寺は永平寺よりも内陸にある。白山は日本三霊山のひとつで、古代から信仰を集めてきた。ちなみにほかの二山は富士山と立山である。白山の美しさについては以前「夢幻の国」の記事で紹介したので参考にしてほしい。

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しかし白山平泉寺についてはほとんど日本人の間でさえ知られていないのではないかと思われる。現地に到着しても車はまばらで、人は少ない。閑散としている。寺域に入る前にごく新しく建設されたと思われる歴史館(白山平泉寺歴史探遊館まほろば)があり、平泉寺の歴史が紹介されている。しかしわたしの心を引きつけたのは歴史館で展示されていたパネルよりも、受付で手渡されたA4サイズの紹介資料だ。両面印刷になっており、一方は散策マップで手書きの地図に説明がびっしりと書かれている。もう一方にも白山平泉寺の歴史がやはりびっしりと、丁寧に書き込まれているのである。白山平泉寺を大事にしていきたいという情熱がこのA4サイズ一枚の紙に吹き込まれているといった感じで、これを入手しただけでとても気分がよくなった。

歴史としては泰澄が717年に平泉寺を開いたとされている。

平泉寺は717年に泰澄が白山に登ろうとして開いた所。池の かたわらで祈っていると、白山の女神が現れた。この池は「平清水」「平泉」と呼ばれここを中心に修行者のための宿坊、白山を礼拝する拝殿や寺院が建ち並び発展した。 「まほろばパンフレット」から引用

山を神の降臨する場とみなしたり、山そのものをご神体とする信仰はいつ発生したのだろうか。峻厳な山容に畏怖し、富士の如き裾野の美しさに神秘を感じるのが人間の本能的な感覚であるとすれば、山に狩猟民が棲みついたときからすでに始まったのかもしれない。

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平泉寺(正式名称は白山神社。福井県)

とすれば、泰澄が開いたというのは仏教という「かたち」がはじめてこの地に入ってきたということを意味するだけで、白山に対する信仰そのものはそのずっと以前から開始されていたと考えるべきだろう。

神社やお寺に食べ物や財産をすすんで寄付することを寄進というが、平泉寺はとくに貴族たちからの寄進が多かった。寄進を受けた寺院は恩恵に報いるため、貴族の土地を防衛する義務を負った。安定した政治機構をもつことのできなかった中世、貴族たちは土地の保護を実力のある組織に委ねたのである。実力とは武力のことであるから、平泉寺は仏教寺でありつつも、内実としては武装集団だった。つまりゴロツキのたまり場だったわけである。平安時代も終盤に差し掛かると、源平という武士の集団が現れ、独自に寄進を受け、土地を確保するようになる。平泉寺にとってみれば、強力なライバルの出現である。そのために平泉寺は妥協の産物として、日本最高の仏教権威である比叡山延暦寺の系列に自ら組み込まれることとした。もし平泉寺の管轄する土地が他人によって脅かされれば、親である比叡山延暦寺も武力を発動しなければならない。当然比叡山も当時立派な武装集団である。もはやヤクザのシマ争いとほぼ変わりはない。

福井県の海岸沿いに有名な東尋坊は、もともとは地名ではなく、僧の名である。

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東尋坊(福井県坂井市)

東尋坊は平泉寺の僧である。凄まじいほどの腕力の持ち主で、わがままで、誰も手のつけようがなかった。周囲の人間が一計を案じ、東尋坊を招いて酒席を催すことにした。春の陽光のうららかな一日で、眼下には海が穏やかで、日の光をキラキラと照り返していた。福井はいまも旨い日本酒がたくさんあるから、当時もたくさんのお酒があったのだろう。人々は次々に東尋坊に酒をすすめ、いつしか彼は気分よくイビキをたてて寝入ってしまった。完全に眠りに落ちたのを確認した人々は重い東尋坊の身体を転がし、海に突き落としたのである。海中に彼の身体が沈むやいなや、それまでのうららかな春の陽気は一転し、黒々とした雷雲が立ち込め、突風が吹き、透明だった海は地底の砂を巻き込んで茶色く濁り大きくうねった。うねった波は東尋坊を突き落とした人々をも呑み込んだそうである。

今回の旅の初日、わたしは越前ガニを食べるために東尋坊へ来ている。

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 この日天候はすこぶる荒れ、店舗のほとんどはシャッターを下ろしていた。越前ガニを食べたあと、海岸まで歩いていったのだが、突風がいよいよ激しく、雨を伴い、歩くことさえままならなかった。カメラを向ける余裕も当然なかった(掲載写真は後日のものである)。これ以上先にすすむと、突風に横倒しにされ、万が一海に転落することもなくはないと思ったほどで、東尋坊伝説も、このような一日を念頭に描かれたものと想像した。

東尋坊のような悪僧(だけではないだろうが)が最盛期に8000人、僧の収容施設である僧坊は6000にのぼったという。現在の平泉寺の寺域ではその発掘調査がすすめられていて、我々観光客も立ち入ることができる。

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僧坊跡地 この階段状の地形に6千の僧坊がびっしりと立ち並んでいた

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発掘現場 石垣が露わになっている 秋には熊が出るらしい(笑)

さて強盛を誇った平泉寺もやがて滅亡の時がやってくる。

室町後期になると、越前や加賀で浄土真宗が大流行する。浄土真宗は阿弥陀仏のお力をひたすら信じることさえできれば、極楽へ行けるというもので、貧しい農民達の間で信仰された。従来の仏教が財物の寄進を要求したり、難しい仏教理論を理解することを要求したのに対し、浄土真宗では南無阿弥陀仏と唱えさえすればよいとしたので、無学で貧しい農民にとっては受け入れやすかったのだろう。平泉寺は比叡山の系列に入ったこともあり、従来仏教に属し、農民に対しては差別意識があった。浄土真宗の信徒たちはやがて組織化され、武力集団に成長する。最も有名なのは1488年の加賀(現石川県)の一向一揆だろう。このとき加賀の大名が倒され、以後100年間に渡って信徒たちによる統治が行われた。その波が平泉寺にも押し寄せることになる。

1574年石山本願寺(注:大阪)の顕如が加賀越前の門徒に、平泉寺の討伐を命令。一揆の地元軍が村岡山(注:平泉寺の近く)に砦を築いたのに驚いた平泉寺の僧兵が攻め込んだ。その頃、一揆側の決死隊は手薄になった平泉寺の背後から放火。慌てて引き返そうとした僧兵も討たれ、平泉寺は火の海に・・・。 「まほろばパンフレット」から引用(一部編集)。

以後平泉寺は復興され、上野(東京)の寛永寺の系列に入って穏やかに時を重ねている。平泉寺の域内は森閑としている。僧兵8000の猛々しさはどこにもなく、歌った場所も対象も違えど、

 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

という芭蕉の句がぴったりする。

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 平泉寺(白山神社)の寺域。芝生のように見えるのは苔。

寺域全体に広がる柔らかな緑色の絨毯は芝生ではない、苔である。わたしは西芳寺を見たことはないが、歴史小説家の司馬遼太郎氏は平泉寺の苔のほうが優れているとしている。もっとも例のA4サイズのパンフレットにはわざわざ、

現在、杉の古木が増え日当りが良くなっています。

司馬遼太郎氏が訪れた頃より苔の状態が悪くなっています。

と書くあたり、謙虚さが現れていて清々しい。観光地されていなく、またする気もなさそうで、といって訪れる人には親切である。

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白山神社社務所の裏にある枯山水の庭。細川高国(1484-1531)の作と伝えられる。臨済宗の巨刹に見られるような完全さはなく、ほどよく雑な感じが周囲の大自然と調和している。

さて平泉寺を抜けて奥へすすみ、坂道を登ればいずれ白山の山頂へ辿り着くだろう。が、今回は時間と装備の関係で行かなかった。代わりに”i北陸”という北陸地方を専門的に紹介するブログサイトからいくつか写真を拝借して、白山の様子を紹介しておきたい。

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i北陸 | 石川・金沢、富山、福井のオススメイベントや観光地等を紹介するブログ

ほか参考リンク:

白山平泉寺 | 福井県勝山市 (写真がどれも美しい)