旅する人々 ー日本をちょこちょことー

自分たちの旅の様子や海外からの友人たちの旅を紹介しています。

永平寺と道元のこと

加賀の温泉郷を出て、車で白山神社(神仏分離以前は平泉寺といった)に向かった。

実際には白山神社に向かう前に、永平寺に寄っている。

今回の旅のテーマは禅寺を巡ることであり、永平寺に行くことは念願の一つだった。が、わたしは永平寺について書くことをずっと躊躇していた。書こうとすれば批判的になりそうで気が重たかったのである。

永平寺を開いた道元(1200-1253)は日本における禅宗の草創期に活躍し、曹洞宗の開祖となった。わたしが禅に興味をもったのは準鎌倉人としては自然な成り行きのことで、日本で最初に禅が根付いたのは鎌倉である。鎌倉には今も数多くの禅寺が残り、わたしの禅に対する興味は禅寺における瀟洒な感じの庭の美しさと、禅という言葉がもつ神秘的なイメージによるものであって、禅宗の中身についてはほとんど知らない。だから禅の内容についてなにかを語り得る資格があるわけではない。

武士政権である鎌倉幕府に保護された禅は当然のことながら武士の間に浸透していった。江戸期に入って京都大徳寺に沢庵という有名な禅僧が出ると、彼は『不動知神妙録』を表し、剣の達人の心境が禅の境地と一致することを説いた。武道に多少の興味があるわたしとしては、禅に対する一方的な憧れはこのあたりから出発している。中国の高名な禅僧で鎌倉円覚寺の開山となった無学祖元(1226-1286)はまだ中国(南宋)にいた時、北方から侵攻してきた元軍の兵士に取り囲まれ、白刃の下に両断されようとするとき、

 電光影裏斬春風(電光影裏に春風を切る)

の偈を読み、元兵を退散させたという。沢庵和尚の解釈によると、

無学(無学祖元のこと)の心は、太刀をひらりと振上げたるは、稲妻の如く電光のぴかりとする間、何の心も何の念もないぞ。打つ刀も心はなし。切る人も心はなし。切らるる我も心はなし。切る人も空(くう)、太刀も空、打たるる我も稲妻のひかりとする内に、春の空(そら)を吹く風を切る如くなり。一切止らぬ心なり。風を切つたのは、太刀に覚えもあるまいぞ。

となる。私を切り伏せても、私は空(くう)であるから、春の風を切るようにどのような手応えもないだろう、ということらしい。切り掛かった兵士も気味悪がって退散したのだろう。

ともかくもこういう武道的な内容が私の禅に対する興味の出発点だから、永平寺がどうのこうのと批判する資格はない。そもそも沢庵は臨済宗であり、永平寺の曹洞宗とは宗派も異なっている。とはいえ、私の禅宗に対する関心は武道と密接不離なものであり、武道とは自己の内面を厳しい修行によって律し、死をも恐れない境地を得るものであるというイメージを有する以上、曹洞宗のただヒタスラに座禅するという”只管打坐”の修行方法は、門外漢にとっては意味不明の禅問答を修行方法とする臨済宗よりも、むしろ武道に直結している感じがしてしまうのである。よりストイックな感じを受ける。勿論臨済宗にとっても座禅は重要な修行法であるから、これはわたしの勝手なイメージに過ぎない。

道元は1200年に京都に生まれ、幼い時、父母を相次いで亡くした。父は平安末期から鎌倉時代にかけて歴代の天皇を補佐した高官である源通親(異説あり)、一方母の伊子の父は摂政・関白を務めた藤原基房である。いわばエリート中のエリートの家系といっていい。だが、道元は幼くして父母を失った。以後母方の祖父である基房に養育されたようである。最初比叡山で天台宗を学んだが、18歳のとき下山した。当時比叡山で出世するためには家柄が高貴であることが必須条件であった。無論家柄に問題はない。むしろ出世の条件としてはこれ以上のものはなかった。それでも比叡山を下りたのは、そもそもが出世のためではなく、純粋に仏道を究めるためであったことを意味するのだろう。下山ののち、当時新興宗派であった禅宗の京都建仁寺に入っている。その後24歳のとき中国に渡り、各地の寺院を渡り歩き、師となる如浄と出会う。如浄の教えは

  • 国王・大臣に親近するべからず
  • 名誉・利得に関することを視聴するなかれ
  • 尋常応(まさ)に青山・谿水を観るべし

といったもので、権力に近づかず、自然に親しむように説いている。のち京都に戻り、興聖寺を開いたとき最初の説法で、

わが家風は草をたのみ、木をたのみとする。道場にもっとも好ましいところはこのようにやぶか林の中なのだ

と説いたというから、忠実に師匠の教えを守っていたといえるだろう。

 

車は早朝、永平寺の門前町に入った。門前町の店を行き過ぎるとき、何人もの人間が手を伸ばし、手招きする。

 「ここに駐車せよ」

ということらしかった。永平寺の門前に行くと、公営駐車場があり、結局そこへ停めたのだが、先ほどの手招きの人々は、 自分のところへ駐車させて金を取りたかったらしい。たくましい商売魂にいささかうんざりしたのだが気を取り直し、さっそく永平寺に足を踏み入れた。

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緩やかに傾斜する参道を上ると左手に通用門があり、ここで拝観料を収める。のだが、後にも先にも、拝観料を券売機で支払ったのはこの時だけである。なんとなくよくない予感がした。券売機に金を入れ、奥に進んでいくと、靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるようになっている。靴は備え付けのビニール袋に入れてガサガサ持ち歩かなくてはならない。奥に進んでいくと、広間で若い雲水が参拝者を相手に説教していた。が、よく聞くと説教ではなかった。参観のルールを説明しているのであった。修行僧にカメラを向けないように、といった細々とした注意をしている。一通りガイダンスが終わると、

 「おすすみください」

といって、我々は部屋の先へと導かれ、ぞろぞろ歩きすすんだ。あたかもテーマパークの案内のようである。そのあとさまざまの巨大な伽藍を、スリッパをつっかけたまま観て回ったのだが、なんだかもうどうでもいいような気分になり、まさしくつまらないテーマパークを巡っているような気分だった。だが道元禅師と永平寺の開創をすすめた波多野義重が眠っているという承陽殿はさすがに緊張感をもって参拝した。手を合わせているその時、若い別の雲水がやってきて、天井に吊り下った鐘を突き始めた。一定の間隔をあけて何度も突くのだが、そのうちに雲水はキョロキョロし始め、しきりに回廊の奥を気にしはじめた。やがて法衣の華麗な老僧が供の者を従えて姿を現した。わたしは完全に幻滅した。逃げるように階段を下り、迷路のように長い廊下を何度も曲がって入り口に戻った。よもやサラリーマン社会と同じような光景をここで目にするはめになるとは思わなかった。

永平寺が今あるような大伽藍を有するになったのは、道元以後のことである。道元時代の伽藍はどのようなものだったのか、今となっては想像のよすがもない。永平寺三世の徹通義介のとき、彼は伽藍を中国風に巨大にするため、中国に渡った。永平寺は何度も焼失しているので、当時のものはそのままでは残っていないが、基本形はこのときにできたのだろう。そういう意味では13世紀後半の中国の寺院の風格を忠実に残しているのかもしれず、そこに価値を見出すことはできるのかもしれない。が、「わが家風は草をたのみ、木をたのみとする。道場にもっとも好ましいところはこのようにやぶか林の中なのだ」という言葉は少なくとも今の永平寺には相応しくないだろう。

通用門を出、参道を下った。参道の脇には盛り土が施され、木々が天に向かって伸びている。地面や石や或いは木々までもが苔によって美しく緑色に覆われていた。永平寺開創からおよそ800年、この苔がいつからのものかわからないが、これだけが永平寺の長い歴史を伝えているような気がした。

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*1:「春は花、夏ほとときす」の道元禅師の石碑