旅する人々 ー日本をちょこちょことー

自分たちの旅の様子や海外からの友人たちの旅を紹介しています。

宇治の興聖寺(京都)

東福寺塔頭の光明院をあとにしたのはすでに二時過ぎだった。

わたしたちは再び奈良線に乗り、宇治駅に向かった。宇治茶を買い付けたかったためである。が、わたし個人としては気になることがあった。道元のことである。道元は日本曹洞宗の開祖である。1200年に生まれ、幼くして父母を失い、おそらく母方の祖父で、摂政関白まで務めた藤原基房(1144-1230)に養育されたと思われる。幼年時代は京都宇治で過ごした。その後比叡山で天台宗を学ぶが失望し、建仁寺で禅を学びつつ中国留学の機会を待った。24歳のとき宋に渡り、中国僧如浄から厳しい教えを受け、法を継いで日本へ帰国する。再び建仁寺に滞在したあとは、近畿を転々とし、34歳のとき興聖寺を開創している。が、やがて興聖寺は経営の苦しくなった比叡山延暦寺の僧兵の攻撃を受けたために、道元は越前(福井)の逃れ、永平寺を開創するに至る。以前の記事で書いたことだが、現在の永平寺はわたしの観察した限りでは観光地化がすすみ、テーマパーク化していて、想像していたものとは著しく乖離していた。

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 そのことが喉の奥に刺さったトゲのようで、わたし自身がすっきりしない気分だったし、道元禅師にもなにか申し訳ないような気持ちがしていたのである。道元その人自身はその後の商業化とは関係がないからである。

宇治駅を降り、宇治川沿いに向かう間そのことばかりを考えていた。いくつかの茶店を回っているときも気がそぞろで落ち着かなかったのだが、すでに時間は日が傾きはじめており、たとえ興聖寺へ向かっても拝観終了となっている可能性が低くなかったので半ば諦めていたのである。といって明日以降は京都駅以北を周回する計画を立てており、宇治に戻る余裕はなかった。わたしは思いを改め、たとえ無駄になってもいいから門前だけでも見ておこうと思った。そうすることが道元禅師及び曹洞宗に対する礼儀であるような気がしたのである。

わたしは靴ひもをきつく結び直し、全速力でかけた。普段仕事の合間に運動しているので体力に多少の自身はある。宇治川南沿いの茶屋通りを駆け抜け、世界遺産の平等院には目もくれず、川端の土手を南下して宇治川にかかる喜撰橋と朝霧橋をわたって対岸に至り、そこから再び全速力で南下していくと興聖寺の坂下についた。琴坂という200Mのこの急な坂道を上り切れば到着である。この頃にはわたしの呼吸は虫の息で、奔っているのか歩いているのか、ヨロヨロになって登り切り、寺門をくぐって受付の雲水に恐るおそる、

 「まだ拝観できますか」

と尋ねた。ほかに参拝客は誰もいなかったのだが、

 「大丈夫ですよ」

走り甲斐があったというものである。走り切って気分が高揚していたのか、余計なことをつい言った。

 「実は昨日永平寺に行ってきたんです」

末寺の雲水にとっての永平寺とはどういうものなのだろうか、という興味があったのである。支社支店に勤務する若いサラリーマンの、本社に対する印象に近いのだろうかと考えたりした。が、雲水はただ、

 「永平寺はもう雪でしたか?」

とだけ言った。遠い永平寺を思いやるような、故郷の老親をいたわるような優しい口調のように感ぜられた。

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興聖寺 方丈(奥)と内庭

興聖寺はさっと見てしまえば10分で見終わることができるような小ぶりな寺で、庭も大きくはない。庭は岩山を表現したものか、石を多数配置していた。臨済宗の洗練されたデザインとは対照的に、ゴツゴツとした朴訥な景観を呈している。この飾り気のない素朴さこそ、道元禅師の生涯と思想に一致しているように思われた。

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興聖寺山門 内側から外に向かって撮影

一通り拝観し終わって山門を出た時、登っていたときには気づかなかったが、山門前の琴坂の紅葉が夕日に映えて赤く燃えるようだった。

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興聖寺山門前の琴坂 紅葉の名所とされている

琴坂を下り切り、北に折れて宇治川沿いに出ると、夕日はますます光線を豊かにし、紅葉の色彩を一層美しく際立たせていた。喉の奥のトゲが取れるような思いだった。

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宇治川沿いの紅葉

(記事終了)