旅する人々 ー日本をちょこちょことー

自分たちの旅の様子や海外からの友人たちの旅を紹介しています。

宇治茶と上林家のこと(京都)

すでに日も落ちはじめ辺りが暗くなってきた頃、茶葉の販売と喫茶もできる上林三入という店に入った。店の二階には「三休庵宇治茶資料室」があって、誰でも無料で入ることができ、歴史を知ることができる。”初代三入と上林三入本店”という説明書きには、

初代上林三入は、戦国時代の終わりから江戸時代のはじめにかけて、宇治茶師の一人として活躍した人物です。宇治川下流の槙島村、今西家に生まれ、はじめ三右衛門といった彼は、宇治郷の藤村家に養子として入り、三入と名乗ります。

槙島を介して宇治川の流れの向こうにある伏見には、有力な武家が軒を並べ、賑わっていました。三入はここで将軍の取り巻き大名を中心に、多くの武将たちと交流をもったようで、彼に宛てた書状には、当初から藤村と上林の両方の名字が用いられました。

寛永15年(1638)、家督を二代目に譲ると、自らは三休と称します。以後の歴代も隠居後は、三休を名乗ることを通例としました。ここ「三休庵」の命名も、これに因んだものです。ちなみに初代三休はその後もよくながらえ、万治3年(1660)、92歳で大往生をとげました。

三入家は、その後十数代つづき、明治のはじめ、大半の旧御用御茶師が没落するなか、茶業経営を維持した数少ない一家となります。

とある。

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上林三入店舗内にて撮影

日本に最初に茶をもたらし、根付かせたのは栄西(1141-1215)であるというのが定説となっている。栄西が中国留学したのは二度で、28歳と47歳のときだが、いずれのときに茶種を持ち込んだのかよくわからない。勝手な想像だが、28歳の若いときには新仏教の理論を会得しようという気持ちが強く、理論以外のものも抱き合わせて持ち帰ろうという余裕は2度目の留学のときのように思う。いずれにしても12世紀末には日本にもたらされ、京都での栽培が始まったのだろうと思われる。

話は脱線するが、以前書いた記事で東福寺のことについて触れたが、東福寺の1世円爾弁円は駿河(静岡県)の出身で、宇治茶と並ぶブランドである静岡茶は、彼が晩年静岡に戻って普及させたのが始まりだという。

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上林三入店舗内にて撮影

その後室町時代に入って、8代将軍足利義満(1358-1408)が宇治茶の価値を認めて保護したことにより大いに発展した。さらに戦国時代に入って、織田信長による保護に続き、豊臣秀吉も積極的に保護する。この時秀吉に茶園の管理経営を任されたのが上林家だった。上林一族は宇治郷の代官として、また茶頭取として大いに栄えたらしい。京都大徳寺は千利休が禅修行の場とし、秀吉を激怒させ切腹の原因となったといわれる金毛閣が有名な禅寺だが、秀吉と利休の当時、大徳寺に供された抹茶も上林一族の茶園で摘み取られたものに違いない(終)。 

三星園上林三入本店

純正宇治茶専門店・三星園上林三入本店

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店舗前にて撮影