越前和紙の貢献
二日目の朝も雨が降っていた。
この日も永平寺への参拝は見送り、越前市の武生という町に向かった。
このあたりは越前和紙の産地である。
わが国を代表する和紙の産地として、今も60軒あまりの和紙業者が技を伝える越前和紙の里。全国で唯一の紙の神様「川上御前」を祀る紙祖神『岡太神社・大瀧神社』を中心に、今も昔ながらの紙すきのたたずまいを見せています。*1
和紙生産は中国で紀元前1-2世紀頃前漢の時代に始まっている。その技術が朝鮮半島を経て日本に渡来するのだが、それがいつ頃なのか明確にはわかっていない。『日本書紀』には610年に伝来したと記載されているが、それ以前に伝わっていたという研究もあるようだ。越前市の人たちは1500年の歴史があると言っているから、日本書紀の記事よりも100年前に成立したと考えているようである。言い伝えによると、ある日突然美しいお姫様が村人たちの前に現れ、
「このあたりは田畑が少なく生活が苦しいであろう。幸い清らかな谷水に恵まれているのだから紙を漉いて生計を立てなさい」
と言い、自ら紙漉の仕方を村人に教えたのが始まりだという。
中国から伝わった製紙方法は麻を材料にしていた。が、麻はもろく、保存に適さなかったので、彼らは自生する楮を材料にして白くふっくらとした”和紙”を漉く技術を確立していった。こうしてできた和紙は見た目も美しく、強靭で保存に適していたのでその後長らく日本の文化と経済を支えることになる。
越前和紙の需要が高まるのは仏教の普及に伴って写経の必要性が生じたことによる。越前も大小の寺社が多かったし、奈良京都の寺社への供給地でもあったろう。平安時代に入ると和歌を書き記すために紙需要がさらに増え、武士の時代以降は政府や大名の公式文書に使用されるようになった。明治政府発行の統一紙幣にも越前和紙が指定され、紙幣製造はすべてこの地で請け負っている。芸術分野での貢献も巨大で、室町期や江戸期の屏風絵や襖絵、浮世絵、近現代では横山大観(1868-1958)や平山郁夫(1930-2009)などの日本画家が好んで使用したほか、海外ではピカソ(1881-1973)が愛用した。
越前和紙の里で紙すきをさせてもらうことができる。
①紙を漉く
②乾いていない状態で装飾を施す
③下から水分を吸引して乾燥させる
④30分ほど放置して完成
*1:当地のパンフレットより