旅する人々 ー日本をちょこちょことー

自分たちの旅の様子や海外からの友人たちの旅を紹介しています。

川端康成と道元

今年の夏のことであったが、一年振りに上海から横浜に一時帰省して、合間に鎌倉に出かけた。鎌倉駅付近の踏切の近くにある小さな古本屋で、眺めるともなしに眺めていた中に『鎌倉再見』という本を発見して買い求めた。その中に川端康成についての記事がある。

横須賀線小町 踏切付近で、昭和四十六年十二月十二日の午後、このあたりまで散歩に出た川端康成は、二十七万円入りの財布を落としたが、付近に住む津山少年がこれを拾い警察に届けたので、無事その金は彼のもとに戻った。

半ばあきらめていた彼は、少年の正直さに感じ、礼金は財布の中の珍しい百円札が欲しいという少年にそれを渡し、父親に三万円を受け取ってもらった。頭を下げて礼を述べたあと、

 「これを機会に友達になりましょう。本をあげるから家にいらっしゃい」と言い、握手の後に、自宅の住所と電話番号を紙に書いて渡したと、翌日の新聞は報じている。ノーベル賞作家と正直少年のこの出会いは、まことにほほ笑ましい鎌倉の話として残っている。

川端康成(1899-1972)は大阪の生まれで1935年に鎌倉へ移住し、以後没するまで鎌倉に住した。上記の出来事が自殺の前年のことであることを思うと、彼の切迫した思いが察せられて痛ましい。

当たり前のことをいうようだが、川端康成は日本で初めてノーベル文学賞を受賞した作家で、日本を代表する小説家である。ノルウェーのストックホルムで行ったノーベル文学賞受賞のスピーチで、彼は”美しい日本の私”という題目で、冒頭に次の歌を掲げた。

春は花 夏ほととぎす 秋は月

冬雪さえて すずしかりけり

この歌は日本曹洞宗の開祖となった道元(1200-1253)の詠んだもので、越前(現福井県)の山深い寺から当時の首都である鎌倉に出、滞在していた際に歌われたものと言われている。おそらくこれは、鎌倉の四季ではなく、「わがすみなれし都」である越前の四季を念頭に詠んだものであろう。

権力嫌いの道元がわざわざ越前を離れ、遥かな鎌倉まで上ってきたのは、自分の意思ではなかったと思われる。1221年に起こった京都朝廷による鎌倉幕府に対する反乱(承久の乱)の際、波多野義重(?−1258)という相模(現神奈川県)生まれの男が右目に矢を射抜かれながらも奮戦し活躍した。乱平定の後、京都朝廷の監視と西日本の統治を目的に、六波羅探題という政府機関が設置された。彼はそれを補佐する評定衆と呼ばれる重職に抜擢されている。一方道元は5年間中国の宋に海外留学したのち、京都に戻った。京都に戻ってからしばらく建仁寺に留まったあと、各地を遊行して布教し、再び京都に戻って興聖寺を開いた。鎌倉幕府は当時新興勢力であった禅宗を積極的に保護しようとしていたから、当然義重も道元の動向には注目していたであろう。禅宗の寺としては鎌倉では寿福寺、京都では建仁寺などがすでに開かれていたが、純粋に禅のみを伝えるのはもう少し後の時代である。純粋禅を伝授していたのは当時の京都では或いは道元のだけだったかもしれない。

同じ京都で道元と義重は知り合った。義重は道元の弟子となり、また大スポンサーともなって保護した。鎌倉幕府は承久の乱後、西日本の貴族や武士や寺社から土地を奪っていったが、奪われる側の抵抗も強く、とくに近江(現滋賀県)にある古い仏教のトップに君臨した比叡山ではその影響が大きかった。比叡山は全国各地の土地を保護し、その見返りに税を取り立てて寺社経営していたが、土地が次第に幕府に奪われるようになると経営が行き詰まりはじめた。さらに禅宗や浄土系の新興仏教が人気を博しはじめたことも、経営難に拍車をかけた。食えなくなった比叡山の僧たちは暴徒化し、ついに京都の寺社を攻撃した。当然興聖寺も狙われた。そこで義重は道元に、

 「越前にわたしの所領があります。そこに移られては如何ですか。」

と勧めたに違いない。こうして開かれたのが永平寺で、現在もなお曹洞宗の大本山として君臨している。義重はその後、或いは鎌倉にも道元の禅を普及させたいと思ったのか、

 「是非、鎌倉にお越しいただけないでしょうか」

と誘った。他の者なら断ったに違いないが、義重の依頼は断り切れなかったのだろう。結局鎌倉へ上った。1248年のことである。執権北条時頼をはじめとする政府関係者に面会し、説法したに違いない。鎌倉幕府は禅宗の保護に積極的だったから、道元を開山として寺に迎えるなどのオファーは当然したと考えられる。が、道元は断った。道元の鎌倉滞在中の歌、

尋ね入る 深山の奥の里ぞもと わがすみなれし 都なりける

分け入ったところにある山奥の里こそが、わたしの住み慣れた都ですよ、という意味だろう。結局半年ほどの滞在で鎌倉を去り、越前へ戻った。道元にとってはそれほど益のない滞在であったが、鎌倉にとっては大きな意味をもった。鎌倉としては初めて純粋禅の存在を知ったのである。その後の鎌倉では、曹洞宗とは別派ではあるものの、本格的に純粋禅が勃興するようになる。